NPO鞆まちづくり工房

鞆まちづくり工房

NPO鞆まちづくり工房は、鞆に住み、鞆を愛する市民達によって平成15年に設立されました。鞆の浦の埋め立て架橋問題を契機に、鞆の浦に様々な意見が飛び交うなかで、足元にある鞆の町並みが少しずつ、着実に傷んでいくことに心を痛めた人たちの想いをつなぐ組織として誕生しました。

【私たちの出発点】

1960年代日本が高度経済成長に入る前、まだまだ戦前の風景があった。
一日に車が一台通るか通らないかの舗装されていない道は子供たちにとって黒板となり、石けり、陣取り、缶缶蹴り、馬乗り、ゴム飛び、縄跳びと遊びは限りなく続き、家には錠はかかっておらず、土間を抜けて奥の空き地に入り探検。山に陣地を作り、路地駆け抜け、鞆の港はどこでも泳げた。そして、学校の5時を告げる「家路」の曲が町中に流れると子供たちは家路についた。

学校からもよく写生にでかけた。いつも遠足気分で港に腰を下ろし海、船、蔵を描き、また、働く人がテーマだと鍛冶町の鍛冶屋に行き道路に並んで、真っ赤に煮えたぎる高炉から鉄を出しハンマーで鉄をたたくおじさんたちを描き、秋には祇園さん参道に並ぶ菊を写生にいった。鞆には映画館が2館あり、学校の映画鑑賞で皆でわいわいがやがやと映画館に並んで行ったことは鮮明に覚えている。

大人たちにとっても「道」は社交の場だった。夏になると縁台が出され、おばあさんたちはシミーズ姿でうちわを扇ぎ、おじいさんたちは将棋を指し、年末になると年に一度の大掃除家々が一斉に道に畳を並べ棒でたたく、壮観な光景だった。

私の中に鞆の自然に生かされた生活の光景が溢れんばかりに詰まっている。
これが私の原風景である。

もちろん、これがそのまま再現されるべくもないが、それでも鞆の町が持つ空気感、つまり万葉から地形の利に恵まれ、瀬戸内海の要所となり潮待ちの港町として栄え、歴史が幾重にも重なり合って作られ醸し出されてきた鞆の町、この面白さを残し、創造してゆけたらと願っている。

 

その思いで再生したのが「友光軒」である。

鞆に一つしかない四つ角がある。
その一角に大正時代からの散髪屋があった。
アールデコの近代モダニズムのモダンな建物。
私は幼少期の頃、3畳ほどもある巨大鏡の前に座って髪をきってもらった。
1960年代流行のおかっぱ髪が出来あがる。
そんな思い出の散髪屋さんに「閉店」の張り紙がはられた。
こんな美しい建物で何かしたい!と「美味しいコーヒーとハヤシライス」の店を開店した。

そこが私の出発点となる。